LOGIN慧が体調を崩してから、数日。 すっかり元気になった慧だけれど、二人は相変わらず忙しかった。(最近、全然話せてないな……) プロジェクトの準備で忙しく、二人きりになる時間はほとんどない。 仕事中に交わす言葉は、上司と部下としてのものばかり。「黒瀬部長、これ確認お願いします」「ああ、わかった」 テキパキと仕事をこなす慧。 あの日、熱にうなされながら莉央の手を握っていた人とは思えない。(やっぱり……夢みたいだったな) 少し寂しく思いながら、自分のデスクへ向かう。 その時。 「白石。この資料、資料室にあるから取ってきてくれ」「はい」 頼まれた資料を探しに、莉央は資料室へ向かった。 人気の少ない資料室は紙の匂いでいっぱいだ。「早く見つけて戻ろう。もうすぐお昼だし」 目当ての資料は数年分。「これ、1人で持っていけるかな……」 そんな不安を抱きながら資料を集めていると……。 ガチャ、バタン! 「え?」 振り返ると。「……慧さん?」「静かに」 さっきよりも少し優しい表情。「仕事は?」「終わらせてきた」「じゃあなにか問題でも? どうかしたんですか?」 純粋な莉央の質問。「2人きりになりたくて」「えっ……」 急な距離の詰め方に莉央は不意打ちを食らったみたい。 一歩近寄った慧がふわりを彼女を抱き締める。「ちょ、ちょっと。今仕事中ですよ!」 誰もいないけど小声で慧を止めようとする莉央。 だけど……。「嫌? 少しでいい」「っ……それだめって言えないの分かってて言ってますよね?」「さあ?」「もう……」 ふわりと香る慧の匂いと、ほどよい体温が莉央を誘惑する。(ほんと慧さんの香り、落ち着く……)「はぁ……落ち着く」「え?」「莉央とこうするの、俺の安定剤」「ふふふ……私も今、おんなじこと思ってました」「そうか……じゃあ俺が今したいこと、わかるか?」「え……っと」 耳元に顔を寄せられる。「莉央……」「……っ」 顔が一気に熱くなる。「わかった?」「……」 顔を真っ赤にしながら見上げると、慧の顔が近づく。 唇が重なる。 久しぶりのキス。 嬉しくて莉央がそっと慧のスーツを掴んだ、そのとき。 ガチャガチャ……。 扉の向こうに誰かがいる。「慧さん、誰か入ってくるかも」「……こっち」
中に入ると寝室以外は真っ暗だった。「慧さん、熱測りますよ」 ソファにもたれて座る慧に体温計を渡す。 その姿はいつもと違って少し弱々しい。 ピピッ…ピピッ…「見せてください」「ん……」「38.8!? 慧さん、ベッドで横になっててください」「ふふ……わかった」 素直に寝室に向かう。 莉央もついていき、ちゃんと横になるまで見守った。「少し寝ててください」「ああ……」「薬は?」「解熱剤は飲んだよ」「じゃあ効くまで休んでてください。起きたとに何か食べれそうなもの用意しときますね」「悪いな……」「いえ、嬉しいんで大丈夫です」「そっか」「はい」 いつもなら余裕の笑みを浮かべる慧なのに。 今日はどこか幼く感じてしまい笑みが零れる。「じゃ、寝ててくださいね」 そう言って莉央はベッドから離れた。 でも。「待って」 慧の手が莉央の手首を掴んだ。「慧さん?」「手」「え?」「少しだけ……繋いでて」「ふふ……いいですよ」 莉央はそっと手を握った。 熱い掌。 大きな指。「いつもと逆ですね」「そうか?」「今日は私の番です」「ありがとう。頼ってもいいんだ?」 その言葉に胸が熱くなる。「もちろんです」 しばらく手を握っていると慧から心地よい寝息が聞こえてきた。 起こさないように部屋を出てキッチンに向かった。 3時間後。 様子を見に行くと慧がちょうど目覚めたところだった。「あ、慧さん。目が覚めました?」「あぁ。今何時だ?」「夜10時前です」「ごめん。寝すぎた」「謝らないでください。寝るのが一番の薬なんですから。ご飯食べれます?」「ああ……お腹空いたな」「待っててくださいね」 莉央が作ったたまご粥を持って寝室へ戻る。「はい、慧さん」「……自分で」「あーん、してください」「……子供じゃない」「病人ですね」「……」「はい、あーん」「……」 少し迷った慧だが、口を開けた。 その姿がおかしくて、可愛くて。 莉央は思わず笑ってしまう。「笑うな」「すみません」「後で覚えてろ」「元気になったらですね」 すると慧は少しだけ目を細めた。 莉央の温かい気持ちと一緒に、慧はたまご粥を平らげた。「ありがとう、莉央」「いえいえ。早く良くなってくださいね」「うん……じゃあ、こっち」 ポ
朝から慧の様子がおかしかった。 会議中も言葉数が少なく静か。 資料をめくる指も遅い。 ぼんやりしていて、いつもの鋭さがない。 (おかしい……) 莉央は慧の様子を見て違和感を覚えた。(やっぱり……顔色が悪い) 莉央はこっそりスマホを開いた。『大丈夫ですか?』 慧に向けてメッセージを送った。 すると、すぐに返信が来る。『平気』 短い返事。 ふと視線を上げる。 慧もこちらを見ていた。 ほんの少しだけ眉が上がる。 大丈夫だ、と言いたいような顔。 けれど顔色は悪い。 莉央の心配をよそに慧は仕事を続けていた。 が、昼過ぎ。 その日は月に一度の幹部会議で、専務が営業部に来ていた日。「黒瀬」「はい」「顔色悪いぞ」「そうですか? 最近、寝不足で」「……」「……あの、島崎専務?」「黒瀬、今日はもう帰れ」「え?」 島崎専務の言葉に社内がざわつく。「そんな状態で仕事してもパフォーマンスが落ちるだけだ」「はい……」「それにな、そんな面してたら男前が台無しだぞ?」「……ふっ、なんですかそれ」「分かったならとっとと帰れ。ついでに病院にも行けよ」「はい。ありがとうございます」 専務の助言を素直に受け入れた慧はそのまま会社を後にした。 午後5時。「お疲れ様でした!」 莉央は退勤時間ピッタリに会社を出た。「慧さん、大丈夫かな……」 心配で落ち着かない莉央は慧にメールを送る。『大丈夫ですか? 何か食べましたか?』 なかなか既読にならなくてソワソワしていると…。 ポロン!『まだ』『熱、ありますか?』『少し』 その返事を見て莉央はスーパーへ走っていた。 ピンポーン! 慧の家のインターホンを鳴らすと、少ししてからドアが開いた。「莉央……」 そこには部屋着姿の慧が立っていた。「来ちゃいました……」「こんな時間に?」「心配だったので……」 慧が少し困ったように笑う。「うつしたくないから来て欲しくなかったのに……」「怒りますか?」「……怒れるわけない。本当は来て欲しかったから」「慧さん……」「我儘でごめん」 いつもより少し元気のない笑みで笑う慧。「もっと頼ってください。彼女の特権……ですから」 嬉しそうに笑う莉央。「ったく……敵わないな」「え? 何か言いました?」「いや、なにも
あっという間に数週間が経った。 莉央の毎日は目まぐるしかった。 慧の後押しもあるが、やっぱり初めての案件。 不安もプレッシャーも大きかった。 それでも、頑張ろう、と思えたのは……。 『白石ならできる』 あの日の慧の言葉があったからだ。 もちろんそれだけではないけれど。 そして迎えた、重要な社内プレゼンの日。 営業部だけでなく、企画部や経営陣も出席する。 この案件の方向性を決める重要な会議だった。 莉央は緊張しながらも準備を終え、会議室へ向かった。(大丈夫……) 何度も確認したし、資料も見直した。(問題ない……) そう思っていた。 会議が始まるまでは。「こちらが市場分析データになります」 何度もシュミレーションした通りに進行する莉央。 その時、企画部長が眉をひそめる。 「白石さん」「はい」「この数値、前回資料と違わないか?」「え……」 心臓が跳ねた。 画面を見て、資料を見る。 そして……。 血の気が引いた。 (違う!) 数字が違う。 本来入力するはずだった最新データではなく、修正前のデータが残っている。 しかも重要な部分だった。 会議室が静まり返る。「も……申し訳ありません」 声が震える。 慌てて訂正しようとしたが、頭が真っ白だった。 その時。「続きはこちらで説明します」 慧が立ち上がった。 静かな声で会議はそのまま進行した。 けれど莉央には、その後の内容がほとんど入ってこなかった。 会議終了後。「白石」 慧に呼ばれる。「会議室に来い」 その一言だけだった。 重い足取りで会議室へ向かう。 慧以外はもちろんいない。 ドアが閉まる音がやけに大きく聞こえる。 莉央は俯いたまま立っていた。「今回のミスの原因は?」 慧が口を開く。 声はいつも通り冷静だった。「確認不足です」「なぜ確認不足になった」「……大丈夫だと思ったからです」「思った?」 鋭い声と視線。 莉央の肩が震える。「営業に思い込みは不要だ」 厳しい言葉だった。「数字一つで信用は失われる」「……はい」「今回は社内だったからよかった」 慧の視線が真っ直ぐ向けられる。「だが取引先相手ならどうなっていた?」 何も言えない。 想像するだけでゾッとする。 「白石」 さらに低
慌ただしい日々が続く。 かれこれ2週間近くゆっくりできていない。 休日も慧と会うことなく、資料作りで潰れてる。 そして今日もあっという間に終業時間を過ぎていて。 デスクにはまだ終わっていない仕事が山積みだった。「あと少し……」 パソコンの画面を見つめながら小さく呟く。 疲れていないわけじゃない。 でも初めて任された大きな仕事。 結果を出したい。 慧に認めてもらいたい。 部長としても恋人としても。 そんな気持ちがあった。 パソコンに向き合っていた莉央は背後からの気配に気づかなかった。「白石」 不意に降りてきた声。 顔を上げると慧が立っている。「あ、部長。お疲れ様です」「何時だと思ってる」 時計を見る。 午後九時半。「あ……」「帰るぞ」「えっ」「帰るぞ」「でもまだ終わってません」「終わってる」「え?」「さっき確認した」 莉央は瞬きを繰り返した。 確かに今日中にやるべき分は終わっている。 でも。「明日の準備が」「明日やれ」「でも……」「白石」 低い声。 嫌な予感がした。 この声は。 慧が何かを決めた時の声だ。「立て」「はい?」「立つんだ」 有無を言わせない空気だった。 莉央は反射的に立ち上がる。 そして15分後。 なぜか莉央は慧の車に乗せられていた。「どこ行くんですか?」「秘密」「怖いんですけど」「誘拐だからな」「部長が言っちゃダメなやつですよ」 思わず笑う。 すると慧が満足そうに口元を緩めた。 その顔を見て、少しだけ胸が温かくなった。 連れて来られたのは海沿いの公園だった。 頬をかすめる夜風が心地いい。 街の灯りが水面に映ってきらきら揺れている。「わぁ……」 思わず声が漏れた。「久しぶりに外の空気吸ったか?」「……そうかもしれません」 言われて気づく。 ここ最近。 会社と家の往復ばかりだった。 休日も資料を読んでいたし。「だろうな」 慧は苦笑した。「根を詰めすぎだ」「そんなこと……」「ある」 遮られてしまう。 「自分じゃ気づいてないだけだ」 図星だった。 莉央は昔からそうだった。 頑張り始めると周りが見えなくなる。 海が見えるベンチに並んでベンチに座る。 しばらく沈黙が続く。 でも不思議と心地よかった。 耳に
「帰ります」「莉央?」「だって疲れてるんですよね」「そういう意味じゃ……」「大丈夫です」 そう言いながらも声は震えてた。「私、平気なので」「……」「これくらい、何ともないですから」「……」「…………」 あ、言っちゃった。 でも止まらない……。「待つのも、平気です」「莉央」「会えなくても……平気、ですから」 嘘。 全部、嘘。 全然平気じゃない。 だけど、溢れる言葉が止まらない。「……寂しく、ないです」 最後の一言で。 自分が泣きそうなのが分かった。「……」 次の瞬間。 ぐいっと腕を引かれる。「っ!」 気づけば抱きしめられていた。 強く、苦しいくらいに。「ごめん」 悲しい低い声が耳元で響く。「……」「……ごめん」 答えない莉央にもう一度落ちる言の葉。 今度は少し掠れていた。 でも……違う、そうじゃない。 こんなことを言って欲しいんじゃないのに……。「莉央」 抱きしめられる腕に力が入る。「あまりにも平気な顔するから」「……」「気づかなかった」 じわ、っと目頭が熱くなる。 首を横に振るけれど。 気づいてほしかったくせに、気づかれたくなかった。「寂しかったんだ」 ぽつりと慧が言う。「え?」 その言葉に顔を上げる。 慧は困ったように笑っていた。「俺も、すっげぇ会いたかった」 その言葉は反則。「朝からずっと……」 あたたかな額が触れ合う。 欲しかった温もりがそこにある。「早く帰りたくて仕方なかった」 ちゅ、っと優しいキスが落ちる。 額に……頬に、髪に。「寂しい時は言ってくれ」 優しく囁くような声。「我慢しないで欲しい」「……」「恋人なんだから」 止められなかった涙が溢れる。 情けないくらい、嬉しくて。「……慧さん」 久しぶりに名前で呼ぶと慧が目を細めた。「ん?」「……」 黙って両手を広げる莉央。 「抱っこ……してください」 言った瞬間、慧が少し驚く。 でも真っ赤な顔した莉央を見てとても嬉しそうに笑った。 「いくらでも」 そう言って抱き上げる腕はいつもより少しだけ、甘かった。 慧の膝の上で幸せを噛みしめる。「……本当は」「ん?」「寂しかったです」「うん」「平気じゃなかったです」「うん」 慧は黙って莉央
地方出張、日帰り予定が急遽の泊まりに変更。 会議が押して、ホテルにチェックインした時にはもう22時を回っていた。「……え、手違い?」 「はい。誠に申し訳ございません」 「どうした」 「あ、それが……」 2部屋予約したはずがホテル側のミスでなぜかタブルの1部屋予約になってしまったことを説明。 フロントスタッフは申し訳なさそうな声で、頭を下げていた。「他に空いてる部屋、ってないですよね?」 「はい……本日は満室でして……ご希望の部屋がご用意できず、大変申し訳ありません」 「仕方ないな」 ハプニングの末、同じ部屋に泊まることになってしまった。 隣にいた
来週のプレゼンに向けて、慧とふたりで作業をすることに。 会議室で資料を並べていると、慧がすっと隣に腰を下ろす。「……あれ? 部長、反対側じゃなくていいんですか?」 「画面、見づらいでしょ。こっちの方が見やすいから」 それだけ言って、莉央のすぐ隣に座る。 距離、ほんの数センチ。画面を覗き込む慧の息がかかるほど近い。(ち、近い……!) 慧は平然とした顔でパソコンを操作していて、全然動じる様子がない。 けれど莉央の心臓は、すでに爆発寸前。「……これ、どう思う?」 「あ、え、っと……私は……」(集中できるわけないじゃん!!)「………?」 莉央がモニターから目
その日は、部署の飲み会。 慧はいつものように、静かにグラスを傾けていただけなのに……。 女性社員たちがこぞって席を替わりながら話しかけてくる。「部長って彼女いないんですか?」 「え、じゃあ今フリー? すっごい意外!」 「休日は何してるんですか? 今度よかったら……」(……またかぁ……) 莉央は、笑顔で対応する慧を横目に、黙々とビールを煽っていた。(わかってる。部長は悪くない。この状況はいつものことだけど……でも、やだ……) グラスを置く音が、少しだけ強くなった。 気づけば、顔がぽーっと熱くて、思考もふわふわ。 そんな莉央を見て、慧が声をかける。「白
白石莉央、25歳。 この春に入社したばかりで、周囲に馴染めず、慣れない仕事にひとり残っていたある日。 時計はすでに21時を回っていた。(もうこんな時間か……あともう少し) パソコンと向き合い集中していたせいか、背後からの気配に気付かなかった。「……お疲れ。これ、食べとけ」 差し出されたのは紙袋とペットボトルのお茶。 驚いて振り返るとそこにいたのは、直属の上司で入社当時から存在感を放っていた、営業部のエース・黒瀬慧だった。「あっ……すみません、私……まだ終わってなくて……」「知ってる。でも、飯も食わずにやってたら倒れるぞ」 ごく自然な仕草で







